【寄稿:開館2年前プロローグ・イベント】「眠たくても、嫌われても、年をとっても」笠井康平
そして、2025年11月30日を迎えた。虎ノ門ヒルズ駅で降りたのは2017年以来だった。「外出自粛要請」に先がけて、リモートワークが私に普及していたから。
コンセプトはまだ固めていないと聞いたものの、みなと芸術センターのデザインワークには、やさしく•上品で•色とりどりのトーンがある。8色で構成されたキービジュアルは、ロゴの正式案が決まるまでのかりそめの姿で、diversityを示唆するだけでなく、イメージカラーが”青”だらけにならないように配慮したそうだ。
私の頭の中の「港区」とはちがった。変な言い方だけど、そこには「余裕」があろうとしている。
会場の日本消防会館(ニッショーホール・会議室)は2024年に開館した、公益財団法人の運営施設である。都心部で数百人規模の貸しホールを予約する大変さは身に覚えがあるから、主催者たちが場所選びに意味を込めたかは問わないし、気にしない。とはいえ、屋上に全国消防殉職者慰霊碑があるこの建物は、古くから火災・水害・土砂崩れに悩まされ、不運にも「明暦の大火」の火元となった土地の記憶と、ささやかにつながらなくもない気がする。
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そう思っていたら、佐藤朋子「オバケ東京ウォーク:いくつかの塔をめぐってm〜mを眺める」(ウォーク)で、港区から見た日本の罹災史がきっちり参照されていた。岡本太郎「オバケ東京」(1965)と如月小春「家、世の果ての…あるいは《少女と犬》型都市を記述する試み」(1964)が下敷きの音声案内を聴きながら、関東大震災と東京大空襲で「火の海」になったこの街の遺構・墓所をめぐる市街型・朗読劇である。
最上階の慰霊碑から出発した30人ほどの観客たちは、ツイキャス配信される「案内」を聴きながら、(登山道に見立てた)エスカレーター、愛宕神社、交差点の信号待ち、東京タワーの展望エリアへ連れて行かれた。シリーズ5作目となる上演で、佐藤氏は「実在する語り手」として観客を導いた。共演者(朝倉千恵子)が演じる「ものいうナマズ」と「ブラッキー(犬)」は、この街で産まれ、育ち、死んだ者たちの言葉を、正史へ挟み込むように読んだ。スマホかイヤホンを耳に当てた観客たちは、自由に歩き、好きな音量で聴き、配信には数秒のラグが生じたから、たくさんの声があちこちに残響した。そのずれが死霊のざわめきみたいだった。目的地の東京タワーまで着いたとき、幸か不幸か、大音量の行進曲を流し、日本社会へ「国防体制拡充」を訴える街宣車が4台通り過ぎた。サングラスを着けた若い男たちが、車内からこちらを睨んでいた。
その轟音が去ったあと、中東から来たらしい観光客ふたりに「何してるの?(What’s Going On?)」と訊ねられた。見知らぬ土地でまだこの世にない劇場の「始まり」を告げる祭りに招かれたといっても伝わらない気はした。私が「演劇?」とだけいうと、ふたりはやけに納得して、笑いながら「なが〜いポテト」の売り場へ去っていった。「おんせん県おおいた「地獄蒸し祭り」in東京タワー2025」が開かれていた。
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帰りはやっぱり道に迷った。永井坂で交通調査をする二人組は浮かない顔だった。麻布台ヒルズ前の交差点で、攻めた髪型の恋人たちが「この国は自己否定が強くなってる」と言い争っていた。コンビニ裏に配送車を駐めて、電子たばこを吹かしながら、スマホで次の配達先を探す若い女性はやけに眠そうだった。
ようやく館内へ戻ったとき、見学予定の三井淳平「レゴ®ブロックでm∼mを作ってみよう」(レゴ®ブロック・ワークショップ)はもう終わり際だった。大会議室は子供たちでにぎやかだった。じぶんで組み立てたパーツが「外せない」と笑う子と目が合った。テーブルを囲む保護者たちは、スマホと我が子を交互に見つめていた。
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同じ室内で、谷口勝也「バーチャル m〜m」(VRエンターテインメント)を体験した。この日のために作られたVRコンテンツであり、今後のベンチマーク(水準点)となる体験パッケージでもあったと思う。
1組数人で「PICO 4」のヘッドセットを装着した観客は、積み木細工の「劇場」(みなと芸術センターの完成イメージ)をまず目にする。その「劇場」はコントローラーなしのハンドトラッキングでつかんで、バラして、持ち運べるとスタッフが告げる。ほどなく始まる上演は、観客たちが「大きな手のひら」を模した足場に乗って、積み木人形のバレエ・メカニック(踊る機械)を案内人として、港区の都市景観と「劇場」の外観、場内、客席を飛びまわるうち、舞台上で万雷の拍手を浴びるひとつづきのシークエンス。
シンプルなかたちの組み合わせで出来た登場人物と、都市3Dモデルと建築図面を応用したであろう風景が、破綻なくまとまっていた。バーチャルライブの見どころも律儀に取り入れてあって――浮遊感、高低差、モノの急接近、奥行きと展望、同期する動き、背後で起きることの見逃し、舞台と客席の入れ替わり――初体験の方にもVRコンテンツの面白さを伝えてくれる。
基調となる木目テクスチャの模様と、単色塗りテクスチャの光沢は十分に目を引き、鳥の羽ばたきや赤いスカートのゆれ、ダンサーの影も着実に作られている。遠くを飛ぶ航空機も、ダンス・モーションも見やすい。オペレーションもなめらかで、受付フロー、待機列の導線、機材収納スタンド、補助員の立ち位置、開始前/終了後の声かけ――どれも丁寧だった。
年長者には移動スピードがやや速かったよう(で、「VR酔いした」という声が2、3人から聞こえたの)だけど、ともすればエフェクトやパーティクルに頼りがちな演出を避けつつ、子供からお年寄りまで幅広い観客を驚かせていた。たまたま私の順番前に体験した区長たちも楽しんでいた。どうにか公開にこぎ着けたであろう製作・運営陣の苦労を思った。

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大ホールで開かれた「プロローグ・トークセッション」は、どの出演者にも難しい役どころだったと思う。行政色がはっきりした登壇機会は、負のハプニングが許容されない即興芝居でありながら、言うべきである/ではない言葉を慎重にかき分けて、かつ聴衆をのめり込ませる演技が求められるから。無難すぎると観客が眠くなるし、報道陣がネタを拾えない。大胆すぎると反感を買い、失言リスクも高まる。その緊張感が客席に伝わりづらい舞台なのだ。
この日は宮崎刀史紀氏(みなと芸術センター開館準備室プログラム・ディレクター長)が施設着工までの歴史をつつがなく語り、開館準備の慌ただしい様子をさっぱりと伝えたあと、清家愛氏(港区長)、箭内道彦氏(クリエイティブ・ディレクター)、サヘル・ローズ氏(俳優)、相馬千秋氏(ファシリテーター)が登壇して、愛称が決まったいきさつ、港区に起きうる変化、新施設への期待について語った。交代制の手話通訳はてきぱきと動き、田村かのこ氏の英語通訳もスムーズだったと聞いた。
序盤から中盤にかけて必須フレーズをきっちりこなしたであろう4人が、「m~m」の「m」は何に見えるかで盛り上がり、「芸術の役割とは何か」を述べるなかで、「アートに生でふれると、異なる人・時代・場所に想像力を向けられる」と強調した相馬氏に、「よそでは絶対無理なこと、10年後に『ここが初演』だと誇れるような演目を」と箭内氏がそそのかすと、「難民キャンプの子供たちから預かった言葉をもとに、世界初のドキュメンタリー演劇を演出したい」とサヘル氏が応じて、「ぜひ、そういうものが観たい」と清家氏も答えた。このくだりは大きな拍手で迎えられた。
相馬氏から「みなとコモンズ」のコンセプトを聞いて、私の名前もペルシャ語で”砂浜”だと明かしたサヘル氏は、「(日本で暮らすと、ともすれば)イラン人は”国家”のイメージと重ねて見られる。だけど戦争へ加担したい国民なんていない。それを”表現”として伝えたい」とも話した。日本で報道される/されない「戦争」と戦争の隔たりが、「港区」と港区のずれと重なって聴こえた。
サヘル氏は、「地雷もない、爆撃もない。蛇口をひねれば水が出て、電気も通っている。そんな場所でエンターテインメントができるのは奇跡的なこと。当たり前じゃない」ともいった。なのに、どうして私たちは、「港区」に「虚しい人生」しかないという物語を信じられたのだろう?
興味深いことに、3人は“表現”について語るときの主語がちがった。区長は「文化芸術」といい、箭内氏は「アートと広告」といい、サヘル氏は「エンターテインメント」といった。それでも会話が成立している(ように見えた)のは、もちろん進行台本と司会術のおかげだけど、ただでさえ曖昧で・多義で・空疎な日本語の、あきれるほどのオムニボア(雑食性)が、かえって功を奏したのかもしれない。
文法の自由がありすぎるくせに、上下関係にやたらとうるさいこの膠着語を、いつかまた私は捨てたくなるだろう。でも、それはいま・すぐでなくていいと思えた。たまたまこの時代に、たまたま言葉に困らずに、たまたま生まれ育った私たちは、たまたま今日まで恵まれたに過ぎないのだから。

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