【寄稿:開館2年前プロローグ・イベント】「徒歩でオバケをつかまえるには」白尾芽

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対する佐藤はアーティストとして継続的に港区のリサーチをおこない、美術家・岡本太郎が1964年に記した「都市建設への提案──オバケ都市論」(*4)を起点とするレクチャーパフォーマンスのシリーズ「オバケ東京のためのインデックス」を2021年から発表してきた。シアターコモンズ’25では「東アジア編」と題し、実際に街を歩くウォークの要素をはじめて取り入れた(*5)。本シリーズでは一貫して、港区に関係する複数の場所や人物や出来事を、佐藤自身の語りによって結びつけるという方法論が取られている。それぞれの事象は地理的・時間的に近接するものの、まさに「インデックス」のように断片的だ。このような性格を持つ佐藤のウォークは、街歩き要素が強かった今和泉のそれに比べると、より上演に近いものだったと言える。

会場であるニッショーホール屋上からスタートした今回は、佐藤と、俳優・アーティストの朝倉千恵子、そして「物言うナマズ」によるリアルタイムの語りがツイキャスを通して共有された。スタート地点たる1つ目の塔に、「全国消防殉職者慰霊碑」が置かれているのは偶然ではないだろう(ホールは日本消防会館内にある)。このウォークでは、死者たちやすでに失われてしまったもの、さらに言えば、その結果をもたらした戦争や災害などの抗いがたい災禍──特に、〈旧〉を覆い隠す〈新〉のように廻る火──に向けられている。実際、ゴールまでの道のりは、ほとんどがかつて火の海の中にあったという(*6)。

©Hide Watanabe

2つ目の塔、虎ノ門ヒルズのエスカレーターを上って一行が向かう3つ目の塔は、東京23区内で一番高い山・愛宕山だ。山頂の愛宕神社は1603年、徳川家康の命により防火の神様として祀られたが、江戸大火災や関東大震災のたびに消失し、再建を繰り返してきた。神社までの上り坂、物言うナマズと佐藤がはずむ息でデュエットするのは、帝国劇場で上演された演劇の劇中歌として1917年に大流行した『コロッケの唄』だ──明日もコロッケ、コロッケ、コロッケ、やんなっちゃうな。帝国劇場は大震災で消失し、その後再建されるものの、戦中に内閣情報部の庁舎として使用され、演劇はプロパガンダの手段となっていく。日本ではじめてのラジオ放送を届けた東京放送局の鉄塔があったのも、ここ愛宕山だ。1939年には内幸町に移転し、45年の玉音放送はそこから放送されることになるのだが、愛宕山では終戦に反対する12名が籠城し、手榴弾を投げあって集団自決をした。いまも神社にはその慰霊碑が残されている。

愛宕山から下り、最後の塔である東京タワーに向かって歩みを進める。大震災で救護活動の拠点となった慈恵大学病院の向かい、ちょうど改修中の青松寺の片隅には「肉弾三勇士」の銅像があるという。肉弾三勇士とは、1932年の上海事変にて、敵陣の鉄条網を破るために破壊筒を抱えて爆死した3人の兵士を讃えた言葉である。その死の1ヶ月後、彼らは歌舞伎になり、歌にもなった。1958年に建てられた東京タワーも、戦争とまったく無縁ではない。大展望台から上は、朝鮮戦争で使われた米軍の戦車のスクラップが材料の一部になっているのだ。最後に一行は展望台に上り、浜松町方面にm~mを含む新たな塔が作られている風景を見ながら、今回のウォークは終了となった。

©Hide Watanabe

このように内容を振り返ってみれば、街の風景を一変させた災禍や散っていった者たちの痕跡と、われわれの足取りが重なっていたことに気づく。しかし実際には、語りを聞き、提示される情報と周囲の風景を紐づけながら歩くことに精一杯で、全体を俯瞰する視点を持てなかったのも事実である。そして何よりこのウォークでは、豊かな現実の風景、そこで起きていることが捨象されてしまっていたように思えてならない。実際、気になるものがたくさんあったのだ──東京タワーの麓からの眺めや、イルミネーション、物産展の賑わい。しかしそれらの現実と語りが見せる都市像は、あまりにも隔たっていた(*7)。そこで観客に、あるいは参加者に期待されるべき役割とは果たして、両者のギャップを埋めることなのだろうか?

「オバケ東京」の原典たる岡本太郎のテキストに立ち返ってみよう。岡本は目まぐるしい東京という都市の変化に圧倒されつつ、その美醜両面を受け入れ、もうひとつの東京として「オバケ東京」を作ることを提案する。その目的は、「二つの東京を猛烈に競わせ、相互に刺激させる」ことにある。「さてどっちが本当の東京か、ということになれば、古い東京自体、ぐずぐずしてはいられない」。オバケ東京とは、東京のコピーでも、新たな東京でもなく、「煮えたぎる東京」の現在の亡霊なのだ。それは過去ではなく未来を志向し、むしろ無邪気に、無責任に、「ずっと生き生きしたイマジネーション」を投影するための、ある種のフィクションとして構想されている。佐藤のウォークで語られる街の歴史は、あえて言えばひとつひとつが「重い」。それぞれの場所や人物や出来事は、すでにさまざまな文脈で動員され、焼け、散り、この土地に痕跡を残している。複数の意味を背負って歴史化したこれらは、岡本が言うところのオバケとはいくぶん距離がありそうだ。

一方で、佐藤はこれまでのパフォーマンスにおいて、カラスやクジラなどの動物をモチーフに置いてきた。今回も例に漏れず、物言うナマズに加え、さまざまな動物たちが登場する。如月小春の戯曲『家、世の果ての……』に登場する、しゃべる犬のブラッキー。虎ノ門の虎。南極観測から戻らなかった15匹の樺太犬。東京タワーの水族館で30年間暮らし、足立区の生物園に引っ越したナマズのジャウー。このウォークでも、歴史化した事象の重みと対照的な彼らの身軽さによって、自分の見ている風景が奇妙に、現実の似姿を借りたフィクションとして立ち上がってくるように思える瞬間がたしかにあった。日の暮れた神社の境内に響く、(物言うナマズが演じる)ブラッキーの「わおーーーん」という遠吠えが、あるいは動物に限らず、もはや笑い飛ばせない『コロッケの唄』の浮薄さが、語りと現実のギャップを飛び越えていく。かつて一帯を燃やし尽くした火は、いまやLEDの光となってクリスマスツリーを照らし、レーザーとなって夜の空に放たれつづけているのだ。そのなかで観客/参加者は、もはや歴史を情報として取り入れるにとどまらず、動物や歌の軽快さを借りながら、各自のやり方で、〈新〉の風景から〈旧〉をすくい出すことができるはずだ。われわれが気になるものによそ見をし、好き勝手に「インデックス」を使い、風景にイメージを投影するとき、はじめてオバケとの出会いが果たされるだろう。

筆者は2022年から23年にかけて、みなと芸術センター(まだその名前が決まる前である)の機運醸成事業に、アソシエート・リサーチャーとして参加していた。リサーチや市民の方々とのワークショップを通して身をもって感じたのは、〈新〉と〈旧〉がコラージュされる都市のなかで、たしかに教育・福祉の実践や居場所作りといった着実な活動がおこなわれているということだ。劇場もそうした機能を備えることを期待しつつ、一方で、両者の間にある距離を意識させられる場面も多かった。今回の2つの「ウォーク」は、まさにその距離を浮かび上がらせ、思考を促すものであったように思う。街をよく知り、現在の姿を相対化して眺めてみる。ぞろぞろと列をなして歩き、そっと語りに耳を傾け、周囲を見回す。こうした演劇的な経験がさらに多様化し、都市に応答する観客/参加者の身ぶりがあらゆる方法で実験されるとき、劇場と街は限りなく接近していくのではないだろうか。

*1──以下のインタビューを参考にした。「7歳のときから空想だけで地図をつくる男」『ほぼ日刊イトイ新聞』、2018年

*2──以下の記事に詳しい。「ヒルズの森 稔る新米 虎ノ門でも共に成長」『日本経済新聞』、2017年12月11日

*3──しかし、ちょうど本稿執筆中の2025年12月には、2030年代までに新橋駅および駅前空間の整備を目指す整備方針が発表されていた。新橋駅周辺基盤整備方針検討会「新橋駅周辺基盤整備方針 Ver. 1(案)

*4──初出は1965年の『週刊朝日』連載。現在は「二つの東京を猛烈に競わせろ」の題で『岡本太郎の眼』(KADOKAWA、2020年)に収録されている。本稿での引用は、すべて同書kindle版88–93頁より

*5──上演の様子は以下に詳しい。権祥海「(シアターコモンズ’25)クジラの背に都市を歩く——《オバケ東京のためのインデックス 東アジア編》」、シアターコモンズnote、2025年

*6──同じように火や土、水を手がかりとする直近のツアーパフォーマンスとして、「開館30周年記念展 日常のコレオ」(東京都現代美術館、2025年)で発表されたトランスフィールドスタジオ《堆積に際して》が挙げられる。関係するインタビューに以下がある。「トランスフィールドスタジオ『堆積に際して』山川陸&武田侑子 インタビュー」(取材・文:山﨑健太)『紙背WEB』、2025年

*7──ツアーパフォーマンスにおいて避けがたいこうした側面に関しては、長谷川新による佐藤の過去作のレビューでも論じられている。「「レクチャーパフォーマンス」を逆照射する試み。長谷川新評 佐藤朋子展「103系統のケンタウロス」」『ウェブ版美術手帖』、2019年